LiveWalkerが取材したライブハウス・インタビュー特集(全111回・2013年7月〜2020年2月)のアーカイブです。掲載情報は取材当時のものです。

ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.36

高円寺ペンギンハウスは、2020年5月をもって閉店しました

高円寺ペンギンハウス

高円寺ペンギンハウスについて
高円寺の路地裏にあった元防空壕の伝説的ライブハウス「猫屋敷」を前身に、1984年10月オープン。歌い、弾き、語るものたちが自由に表現できる場、さらなる活動のステップとなる場をつくりたいと、ブルースシンガー仲田修子氏と数名のバンドメンバーによって立ち上げられたミュージシャンによるDIY型ライブハウスの先駆。人鳥が翼をひろげ遊泳する地下空間では、演者とお客さん、そこに在るもの全てが一体となって、千夜一夜の音風景をひらく。
高円寺ペンギンハウスへのお問い合わせ
高円寺ペンギンハウス
[閉店] 杉並区高円寺北3-24-8 みすずビルB1
TEL:03-3330-6294
営業時間:ライブ 19:00〜23:00 / パブタイム(ノーチャージ) 23:00〜27:00
高円寺ペンギンハウス

ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 高円寺ペンギハウス編

このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。

高円寺ペンギンハウス チーフPAオペレーター ジミー矢島氏

本日は高円寺の名門ライブハウス「ペンギンハウス」のジミー矢島さんにお話をお伺いします。まずはお店設立の経緯から教えてください。

ペンギンハウスのオープン前、今から40年ほど前に「猫屋敷」というライブハウスから始まっています。当時は、僕らもプレイヤーで、なかなかライブ活動が思ったように出来なかったので自分たちで作りました。自分たちの他にもライブをやりたいのにやれない人たちがいて、そういうミュージシャンの活動の場を作りたいというのもありました。

猫屋敷はどのようなライブハウスだったのですか?

小さなライブハウスで、ライブは週1ペースでやって、のちに音楽スタジオも作って営業していたのですが、音楽やバンドをやりたがっている人たちが、思ってた以上に多いことを実感しました。

やはり当時はライブハウスやバーなど演奏できる場所が少なかった?

数も少なかったと思いますが、僕らが音楽活動をしているなかで、当時のライブハウスの在り方に疑問を感じる所もありました。ただ場所を提供して、「お客さんが入ればいい」みたいな、営業面重視の感じのお店が結構多かったんです。

それで自分たちの理想とするライブハウスを立ち上げたのですね。

表現活動をする人が自分の思った通りの事ができる場所、また、ここを土台に次のステップに行けるような修行の場、スキルアップできるような場所にしていきたい、という気持ちで始めました。

その後、「猫」が「ペンギン」になるのですね。

ある程度資金も貯まったので、もっと大きなスペースでやろうということで、猫屋敷から8年たった1984年に、ここペンギンハウスをオープンしました。ペンギンハウスになっても、表現活動をする人への思いは同じです。

ペンギンハウスは演者とお客さんが近い距離感でステージを楽しめるのも魅力です。

ステージに段差もないし、客席とも近いので、前の方では演奏者の汗も飛んでくるだろうし、息づかいも感じられます。もちろん、広ければゆったりとは出来るんだけど、コンパクトな店にはそれなりに良さがあると思います。自分も演奏していますから、ダイレクトにお客さんの反応が判るのは演者にとってもすばらしい事じゃないかなと思います。

「同じ空間を共有している」という実感を大切にしたい

それこそライブハウスの醍醐味ですからね。

その日の演奏者のモチベーションは、お客さんがある程度作っていくという事もあると思うんですよ。お客さんの反応が良ければ、演奏もノッてくるし、普段出ない物が出てきたりする。それが現場の楽しみですよね。ライブ自体はネット配信でどこでも観れる時代ですが、ライブハウスで「同じ空間を共有している」という実感を大切にしたいですね。

演者とお客さんが一緒に空間を作っていく、いいですね。それでいて、ペンギンハウスの魅力はリラックスできる雰囲気があることです。

ライブハウスの雰囲気はスペースの広さや形じゃなくて、そこにいる人たちによって作られるものです。ライブハウスによっては目当てのバンドだけしか観ないで終わると帰っちゃう人が多いと思うんですけど、うちの場合はそれが少ないのも特徴です。

目当て以外のバンドも観て帰ってくれるなんて、貴重な箱です。

出演者も最初から最後まで対バンのライブも観て、「あのギタープレイいいですね」とか、「エフェクターは何を使っているんですか?」と交流ができたり、お客さんも目当てのバンド以外の演奏も楽しんでくれて、そこから繋がっていったり、ということが多いです。

バンドとして理想的なライブハウスです。

一日の対バンの流れが、一つのストーリーになるように考えてます。何でもいいから入れとけとか、同じようなアーティストだとお客さんもつまらないので、「ここでこのバンドが出るか!?」みたいな奇想天外なブッキングが結構ありますよ。でも、終わってみると、出演者たちも「なるほど」と感じてくれて、良い刺激を受けてくれることもよくありますね。

毎日のライブレポートは1,200回を超えた

確かに、来店したとき、僕も自然と最後まで全部観ていました。

それは嬉しい限りです。それと、ここ数年は毎回ライブレポートを書いています。毎日書いているので1,200回を越えました(笑)。結構、努力していますよ(笑)。

1,200回レポート? それはすごいです!

これだけやっているライブハウスはなかなかないと思います。その日の出演者の紹介なども書いているんですけど、結局、元になっているのは、僕自身がプレイヤーでいろんな所で演奏してきたので、自分がされたら嬉しいこととか、嫌なことなどをこの店にフィードバックしています。

そこまで考えてもらえるとプレイヤーにとっても大きな励みになります。ジミーさんはどのように音楽と出会われたのですか?

僕は、生まれが吉祥寺で、吉祥寺にはかつて「ぐゎらん堂」(1970年〜1985年)という店がありました。高田渡などのフォークシンガーを中心に、弾き語りミュージシャンが自然と集まってくるような店なのですが、そこに出入りするようになったのがきっかけで、音楽の道の深みにはまっていきました。19歳の時から人前で歌い始めて、ブルースシンガーのシバ等とも一緒に演奏していましたね。

ジミーさんのお歳を聞いてもいいですか?

今年で64歳になります。なのでギター弾き語りプレイヤー歴は45年くらい。

45年前となると、どのようなライブハウスシーンだったかちょっと想像がつきません…。

ライブという言葉も無かったんじゃないかな。たぶん、「ぐゎらん堂」はライブハウスの元祖になるのではないでしょうか。そこに仲田修子という女性のシンガーソングライターがいて、彼女とはもう、40年ぐらいの付き合いなんですけど、彼女と出会ってから2年くらいたった頃、「今の音楽シーンを何とかしたいよねー、じゃあ、店作っちゃおうよ」というきっかけで始めたのが、前身の「猫屋敷」になります。

全員20代、ギリギリの所からスタートした「猫屋敷」

音楽活動を始めて、割とすぐにお店を立ち上げた感じなのですね。まだ20代ですよね?

全員20代でしたね。アルバイトしてお金を貯めて、少ない資金で安い物件を探して、知り合いの大工さんになんとか安くやってくださいって言って(笑)。本当にぎりぎりの所からスタートしましたね。

今だったら、ライブハウスのビジネスモデルがあると思うんですけど、収益面での不安はありませんでしたか?

儲けようとは考えていなかったですね。そこそこ生活できて、音楽活動している人たちが活動できる場所があればいいなあ、それくらいの感じでしたね(笑)。

ビジネスというより、生活の一環として音楽と関わってたんですね。それが、ペンギンハウスにも引き継がれているのですね。

はい、基本的にはオープン当時から何も変わってないですよ。設備を足したりはしてますけど。そのまんま生きている事とイコールになっているんだと思います。

ペンギンハウスのカラーとして、ブルースや弾き語りシンガーソングライターの印象が強いのですが、どのようなジャンルがメインですか?

表現者の活動場所としてジャンルの限定はしていません。音楽以外でも、表現者達にはここを土台にしてくれたらと思っています。音楽以外でも、お笑いとかダンスとか、他、多様なパフォーマンスの人たちが出てくれると面白いかなと思います。

音楽以外で、印象的なアーティストはいますか?

ザ・ショッキング』(過激なパフォーマンスをおこなう女性ユニット)ですかね。彼女たちがパフォーマンスの世界で、どれだけの位置付けになってるのかまでは僕はわからないけど、この場所でやってもらう事で、彼女たちがスケールアップしてくようなお手伝いが出来たらいいなあと思います。

以前、即興で俳句やシュールな格言を次々と繰り出す方を観たことがあります。

あれは、ここのマスターですよ(笑)。マスター(丹沢亜郎氏)はミュージシャンではなくて、俳句をやる人なんですよ。ライブを観て、インスピレーションで俳句を詠む、とかやってますね。ペンギンハウスは僕とマスターの二人三脚でやっています。

音楽が無ければ生きていけない、とまでは言わないけど、息苦しいんじゃないかな

それでは最後の質問です。ジミーさんは僕らからしても音楽の大先輩になります。バンド活動をしている人たちにメッセージを頂けますか。

今の時代、音楽を職業にしていくのは、難しいと思うんですけど…、音楽が無ければ生きていけない、とまでは言わないけど、息苦しいんじゃないかなと思うんです。ペンギンハウスは人前で演奏すること、生の演奏を聴くことが、生きていく中で大事なんだと感じ取れる場所、確認できる場所でありたいと思っています。まず、ライブを観に来てください。全身で感じて欲しいと思ってます。

表現で遊ぶ素晴らしさ、人生の詩歌を心で感じられる場所だと思います。

それとあと一つ! 蛇足になっちゃうけど、僕は45年くらいギターを弾いてきて、これからはギターのことも伝えたいなあと思い、来る7月12日(2016年)からギター教室を始めることにしました。情報はペンギンハウスのホームページを見ていただけたらわかると思いますので是非ともチェックしてください!

45年積み上げたブルースギター。多くの方の音楽人生に新しい扉が開かれると思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。

インタビュー&ライター 浅井陽(取材日 2016年5月)

インタビュー特集一覧(バックナンバー)

バンドメンバー募集のメンボネット ミュージックジョブネット
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高円寺(北口)
高円寺(北口)
駅前ロータリーに見える「純情商店街」のアーチが目印。中通り、庚申通り、あづま通りなど、それぞれ商店街にそって、地元に根付いた庶民的で個性ある店が立ち並ぶ。夕暮れ時には商店の活気ある呼び声が飛び交い、西日とともに酒場文化が動き出す。言葉が生き様となって通りを歩き、哀しいほどに唄が染みこんだ街。ペンギンハウスへは純情商店街を突き当りまで直進して左折、菓子店の地下。
仲田修子
ライブハウス黎明期から活動する日本の女性ブルース・シンガーソングライター。仲田修子公式サイトで読める本人著の「ダウンタウンブルース」では、彼女が駆け抜けたブルースの奇跡が綴られている。人生がブルースそのものである。1998年、書籍「高円寺 修子伝説(本間 健彦 著)」、2016年、最新アルバム「ALMOST LOST MIND」発表。現在もペンギンハウスでその歌声を聞くとが出来る。
公式サイト 仲田修子.com
ぐゎらん堂
まだライブハウスという言葉がなかった70年初頭に、村瀬春樹、ゆみこ・ながい・むらせ両氏によりオープン。日本のライブ音楽シーンの礎を作ったライブハウスの草分け(1970年-1985年10月)。「武蔵野火薬庫」の異名に相応しい若い熱気とエネルギーが充満し、ミュージシャン、詩人、漫画家、演劇人、作家などジャンルを越えたアーティストたちが集い、互いに影響を与えながら切磋琢磨した元祖カウンターカルチャー発信地。
高田渡(1949年〜2005年)
庶民の日々の生活を歌い、ユーモアと悲哀を交えて世相を風刺した日本のフォーク界を代表するフォークシンガー。吉祥寺フォークの第一人者で、「ぐゎらん堂」に集まるミュージシャン仲間とジャグバンド「武蔵野たんぽぽ団」を結成。酒と詩をこよなく愛し、全国を放浪した吟遊詩人の生き様は多くのミュージシャンに影響を与え、人々に愛された。息子はミュージシャンの高田漣。
ザ・ショッキング
2001年に結成した仙台出身の過激なライブパフォーマンスを行う女性2人組ユニット。ペンギンハウスで定期開催されている「ザ・ショッキングショー〜ショッキングの工事現場」の過激でポップ、痛くて、熱くて、身体をはったエンターテインメントがスゴイ。