ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.90
- 西永福JAM について
- 数々の伝説のロックバンドを生んだ「新宿JAM」の魂をたずさえて新天地・西永福に移転。ライブフロアと独立したカフェ・ラウンジスペースを併設し、新たなトレンドをスパイスにした「西永福JAM(ジャム)」として2018年6月リニューアルオープン。バンドやイベンターとディスカッションしながら、それぞれの想いを共有し、スタッフ一丸で後押しし、互いに成長していこうとするスタンスは新生JAMでも健在。ライブハウスシーン未開拓の西永福がいつか「聖地」とよばれるその日に向かって、挑戦のヒストリーはつづいていく。京王井の頭線「西永福駅」南口から直進30秒。
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東京都杉並区永福3-34-14 B1F
TEL:03-6304-7012
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ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 西永福JAM 編
このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。

西永福JAM 店長 西野”カズマックス”一真氏インタビュー
38年目、歴代店長がJAMの歴史をつないで今に至る
本日は西永福JAM 店長、西野“カズマックス”一真さんにお話をお伺いします。伝説のライブハウス新宿JAMが、西永福に移転してリニューアルオープンしました。まずは、おめでとうこうざいます。
ありがとうございます。おかげさまで、2018年5月19日にプレオープン、6月1日にグランドオープンできました。
新宿時代の話からお聞きしたいと思います。JAMがオープンしたのはいつになりますか?
新宿JAMは1980年10月にオープンしましたので、「JAM」として38年目となります。
JAMはリンキィディンク系列のライブハウスですが、最初から系列店としてのオープンだったのですか?
創設は八王子papaBeat店長の高野正樹さんという方が個人で立ち上げました。しかも、最初はライブハウスではなくてスタジオとしてのスタートだったそうで、のちにリンキィディンクが運営することになりました。
新宿JAMに併設されていた「スタジオジャム」ですか?
はい、(新宿JAMに)いらっしゃったことがあった方にはわかると思いますが、ライブハウスの奥にあったスタジオです。2部屋のスタジオとして開業したのち、スタジオの待合室と事務所だった場所をライブハウスにしたそうです。
待合室兼事務所がスタジオのスペースを凌駕している(笑)。
そうですよね(笑)。なので、ある日、スタジオのお客さんに「こんな広い空間があるのだから、ライブハウスにしちゃえばいいじゃん」と言われたのが、ライブハウスを作ったきっかけだと聞いています。
その後JAMは、その名を知らないバンドマンはいない名門ライブハウスとなりました。
僕が生まれる前からある店ですからね。数々の歴代店長たちがJAMの歴史をつないで今に至ります。
長い歴史をもつJAMの特徴について紹介してもらえますか。
38年やっているので、箱の特徴も時代時代で変わってきていますが…。僕のイメージでは、黎明期の有名ライブハウスというと、新宿ロフト、曼荼羅、新宿ACB、渋谷エッグマン、原宿ラママあたりで、JAMは、これら名門箱に行く前の登竜門として愛されるライブハウスだったと思います。
数々のメジャーバンドがJAMの出身だと聞きますね。
はい、エレカシ、スピッツ、ブルーハーツ、氣志團などの大先輩も新宿JAM発祥のバンドです。夢を追う若いバンドのための足がかり的な場所で、それは自分が入ってからも変わっていません。バンドマン同士で横のつながりを作ったり、ライブハウスとしてどうやって彼らを後押しするかを話し合ったり、言い合ったり(笑)、夜な夜な繰り広げられていました。

この物件を内見した時に「キタな…!」と思った
たくさんのバンドマンに支持されるゆえんですね。そんな熱い新宿JAMがなくなってしまうとSNSでも話題になりました。新宿JAMを閉店することになった理由は何だったのですか?
直接的な理由は、ビルの老朽化によるものです。JAM自体のリニューアルは以前から予定をしていて、店長も自分がやる予定でいましたが。
となると、まずは移転先となる物件探しですね?
はい。最初は新宿で探していましたが、もはや新宿にライブハウスが可能な物件がほとんどなく、たとえ、めぼしい物件があっても、めちゃくちゃ高価な場所で、コスパ的にやれる環境じゃなくて。東京都全域で調べましたが、結果的にビルのオーナー様がとても理解ある人で、ここを内見した際に一発で自分も気に入って条件的にもハマった所がここ(西永福)でした。
西永福に移転と聞いたときは、正直、大胆な挑戦だと思いました。(井の頭線の)急行も止まらない住宅街に来るというのは…。
そうですよね。でも、実は、この物件を内見した時に「キタな…!」と思いました。似たような条件の成功例として新代田FEVERさんがあったので。もちろん、FEVERの成功は西村さんの力があってこそですが、FEVERの例がなければ、ここではやってないかもしれないです。
FEVERは新代田という地域の知名度、ブランド力を高めましたね。JAMも西永福でさらなるステップアップを狙っている、と考えていいですか?
もちろんです。
ところで、このきれいなラウンジスペース、新宿時代とのギャップに驚く人も多いのでは(笑)。
はい、もれなく皆さんに驚いていただいています(笑)。このラウンジスペースを作った理由は「みんなのたまり場」になったらいいなと思ったからで、このスペースをうまく活用して、普段はライブに行かない人にも、ライブハウスシーンを知っていただくきっかけになったらうれしいです。

フラッと立ち寄れる、アメリカンスタイルができたら
お店の方向性としては新宿JAM時代から変化はありますか?
新宿JAMを基本に、さらに間口を広げて成長したいと思っています。新宿の時は、良いかどうかは別として、飲み放題メニューなどもあって、飲兵衛のライブハウスという一面がありました。それはそれで最高だったですけど、僕としては純粋に音楽を楽しむ人にも来てもらいたいし、いろんな人が交流して、そこから何かが生まれていく場になったらいいなと。
西永福という音楽シーン未開拓の地にJAMができたことで、今までになかった人や文化の流れが生まれていきそうですね。
そうですね。ライブを見るためだけでなく、ふらっと飲みに来る場所、友だちに会いに来る場所、たまたまその時にやっているバンドがよかったらチケット代を払って観る、そんなアメリカンスタイルなライブハウスの運営が出来たらと考えています。
新宿時代のディープなところから、ややライトな客層にも広げていくイメージでしょうか。
現場も運営も、やっている人間は変わらないし、根底的なスタンスは新宿JAMと変わりません。もちろん新規のスタッフもいますけど、みんな音楽が大好きですし、バンドともいろいろと話をしながら、互いに成長していきたいと思っているスタッフが集まっています。
新宿JAMの魂は健在だと。昔ながらのファンも納得の前進ですね。
まだまだ、どうなるか未知数の部分もありますが、しっかり盛り上げていこうと思います。

自分なりに「JAM」の看板とその意志を継いでいきます
それでは次に、西野さんと音楽の出会いをおしえてください。
僕は、生まれは宮城県の石巻ですけど、1週間後には東京の練馬に来ていたので、実質、東京人です。小学生のころに聴いたブルーハーツがきっかけで、音楽の世界に入りました。中学のとき、友だちの家でギターに触れる機会があって、そこから本格的にギター、バンドにのめり込むことになりました。
ブルーハーツは小学生の心も掴んでいたとは!胸が熱くなります。
高校生になると、軽音学部に入りながら、自分でバンドも組み、オリジナル曲を作ってライブ活動をするようになりました。その頃には、練馬から埼玉に引っ越していたので、初ライブは、東武東上線で行ける池袋Live inn ROSAでした。
「埼玉」と「池袋」、切っても切れない関係です。高校卒業後の進路は?
やればやるほど音楽が好きになってしまっていたので、大学に行くか、就職をするか、バンドをやるか迷いましたね。親からバンドを反対されていたのもあって、とりあえず就職して料理の仕事につきました。
そこからどのようにして新宿JAMへ?
やっぱり音楽が好きだったので、その会社は入社1年で辞めて、大好きなブルーハーツの発祥の地、新宿JAMの面接に行って、今にいたります。それが2003年頃の話です。
ブルーハーツへの熱い思いが、西野さんを音楽の世界へと連れ戻したのですね。
はい。自分のブッキングで、梶さん(ザ・ブルーハーツのドラマー)が出てくれたことがあって、感激しました。これからのブッキングでザ・クロマニヨンズのライブが組めたら、夢が叶います!
西永福の地に、ザ・クロマニヨンズが舞い降りる日が楽しみです。それでは最後にJAMからメッセージをお願いします。
新宿JAMから西永福JAMへ、見た目は180度変わりましたが、自分なりに「JAM」という長い歴史のある看板と、その意志を継いでいます。昔のJAMが好きだった人、新たなJAMを体験してくれる人、みなさんと一緒に、これからもJAMの歴史をつないで行きたいです。
私もふくめて、多くの人が新生JAMに期待していると思います。本日はありがとうございました。

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