ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.41
Live Music JIROKICHI
- JIROKICHI について
- 天下の大泥棒から名を拝借し、1975年2月「生聞居酒屋 次郎吉」が高円寺に誕生した。以来40数年、出会った多くの人の心(ハート)を鮮やかに盗みつづけるジロキチ。そんな独特の魅力をもつライブハウスJIROKICHIには、時代が変わっても一貫して変わらないものがある。「ミュージシャンとお客さんが一つになって、心から音楽を楽しめるように」と願うスピリットとその陰の立役者たちだ。互いへの敬意と愛情に満ちた雰囲気は、いつの時代もアーティストを惹きつけ、名演を生み、生き生きとしたパワーをひとの内側から呼び覚ます。今夜もスネアライトが温かく灯る。
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- Live Music JIROKICHI 公式サイト
杉並区高円寺北2-3-4 高円寺ビルB1
TEL:03-3339-2727
ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 Live Music JIROKICHI編
このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。
JIROKICHI店長 金井貴弥氏
本日は高円寺にあるJIROKICHI店長の金井さんにお話をお伺いします。数ある老舗ライブハウスの中でも名門中の名門として名高いお店です。設立の経緯などを教えてください。
僕自身は1991年頃にJIROKICHIに入りました。お店は1975年オープンで今年42年目になります。ヨーロッパを放浪していた若かりし頃のマスター(ジロキチ初代マスター 荒井誠氏 1945年〜2011年)が、当時ここ(JIROKICHI)でレストラン経営をしていたマスターのお姉さんに「ここで、何かお店でもやらない?」と声をかけられたのがキッカケということになりますね。
(初代マスターの)荒井さんはミュージシャンや音楽関係者というわけではなかったのですよね。
はい、(初代マスターは)JIROKICHIをオープンするまでは音楽の仕事とは無縁で、ヨーロッパを放浪の途中でイスラエル人が経営する「ライブハウス」で音楽の生演奏に出会ったのが、マスターがライブハウスをはじめる動機になったのだそうです。それで、前述の実姉が経営していたレストランを引き継ぐ形で放浪の旅からから帰国、ライブハウス「JIROKICHI」がオープンしました。
1974年頃といいますと、まさにライブハウス創生期だと思いますが、オープン当時のシーンはどのような感じだったのでしょうか。
1970年代初頭には、高田渡(フォークシンガー 1942年〜2005年)等を中心とした、「吉祥寺フォーク」の流れがありましたが、まだまだミュージシャンの数が少なかったようですね。JIROKICHIオープン当初は、マスターの友人、知人をつてにフォークミュージシャンを集め、それでも数が少なかったので、金土日の週末だけやっていたと聞いています。オープンイベントの出演者には、坂本龍一さんがフォークシンガーのバックで出ていたりもしました。
坂本龍一さんがフォークミュージシャンのバックで出演!?
まもなく、京都のWEST ROAD BLUES BAND、大阪の憂歌団、上田正樹とサウストゥサウスらが頭角をあらわし「関西ブルース」と言われるブルースブームがやってきて、JIROKICHIは関西のブルース・ミュージシャンたちが東京で活動する拠点となっていました。
フォークとブルース、東西が交差する場所にもなったと。
同時に、月一でライブをしていた、当時からジャズのサックスプレイヤーとして有名だった渡辺貞夫さんと、前述した関西のブルース系ミュージシャンと交流が生まれてセッションが始まり、今でいうフュージョンサウンドの下地、流れが作られ、追随して他もどんどんと世に出てきたんですね。
JIROKICHIのセッションから「ネイティブ・サン」が生まれた
フュージョンの隆盛にもJIROKICHIさんが深く関わっていたとは…。
しばらくして、渡辺貞夫さんのバンドにいた若手ジャズミュージシャンが、JIROKICHIでフュージョンや実験的なセッションが行われる中で「ネイティブ・サン」(1978年)が生まれました。彼らは、大ヒットしてレコードも30万枚ぐらい売れて、高円寺の阿波踊りに出た時には機動隊が出るぐらいの人気だったそうです。
この時点で、錚々たるミュージシャンが集まるライブハウスとなっていますね
そうですね、まだまだライブハウスが少なかったので、ブラックミュージック、ブルース、ジャズ、ソウルなどの発信地となっていました。その他にもオープン当時はポップス、ロック系では山下達郎さん、ギタリストのCharさんなどなど、のちに日本を代表するスターとなるような、大勢のミュージシャンが出演していました。
甲本ヒロト(ザ・クロマニヨンズ)がJIROKICHIで荒井氏に教わったディジュリドゥを演奏したという話が有名です。
マスターは放浪癖があって(笑)、JIROKICHIがオープンして20年近く経った1993年頃に放浪の旅に出て、放浪先のオーストラリアで手に入れた楽器「ディジュリドゥ」を持って帰国してきました。それまで自分では一切音楽活動をしていなかったのに「俺はこれからこれをやる!」と宣言して(笑)。それから、「荒井ABO誠」としてディジュリドゥ奏者の活動をはじめました。根っこではミュージシャンに憧れていたんでしょうね。
放浪からのディジュリドゥ…、ヒッピーのようですね(笑)。
もろヒッピーです(笑)。周りの友だちもみんなヒッピーです。その後、ものすごく練習して、甲本ヒロトさんに教えたり、山下洋輔さんと共演したりと、ディジュリドゥ奏者の日本の第一人者みたいになっちゃいました(笑)。ツアーとかやるようになってからは、店にはほとんど来なくなっちゃいましたね(笑)。
自由奔放でいて、人を惹きつける魅力的な方だったのですね。
本当に魅力のある人でした。この店の内装もすべて自分たちで手作りしたというこだわりがあって、それでいて、音楽的なこだわりはなく、直感で「こいつは気合いが入ってる!」とか、そんな理由からマスター判断でブッキングしたりして…。常に面白い事に目を付ける人で、うちらはいつも驚かされてました(笑)。
高校3年の時、B.B. KINGに出会い衝撃を受けた
次に金井さんと音楽の出会いについて教えて下さい。最初に音楽に目覚めたのはいつ頃ですか?
中学ぐらいですかね。地元が群馬の田舎で、野球ばっかりやっていました。中学も後半になると、周りに音楽を聴く人が増えてきて、自分も自然に聴くようになりました。
その頃はどんなアーティストを聴いていたんですか?
井上陽水さんなどですね。のちに、井上陽水さんがJROKICHIでやった時はびっくりしましたね。レコードと一緒で歌が上手くて興奮しました(笑)。
井上陽水さんもJIROKICHIに出演されたのですね。
はい。それはもう感動でした。高校からバンドを始めて、当時流行っていたBOØWYやBUCK-TICKなどを聴いていましたが、高校3年の時に、ブラックミュージックやレゲエなど洋楽を聴いていた友だちから色々な音源を聞かせてもらい、衝撃を受けました。その中の一つに、U2の「魂の叫び」というドキュメンタリー映画のビデオがあって、そこにB.B. KINGが出たんです。
B.B. KING、まさにレジェンドとの出会いだったのですね。
「これは一体なんなんだろう…!?」と衝撃を受け、それからブルースのレコードや音楽雑誌を集めていました。高校卒業後に群馬から上京したのですが、東京には、それはもうマニアックな人がごまんといて。知り合った人の中に、さらなるブルースのマニアがおりまして、彼がいろいろ教えてくれたおかげで、デルタブルースなど渋い所を聴くようになって、どんどんブルースが大好きになっていきました。
JIROKICHIとはどのように出会ったのですか?
雑誌でここ(JIROKICHI)を知り、実際に来てみたら、一見怖くて入りづらかったんですけど、ひとたびお店に入ると、ブルースのセッションが聴こえてきて、「うわあ、ほんとにブルースやってる!」と、驚いたのが始まりです。
上京と同時に、一流の音を生で体験するなんて、相当な衝撃だと思います。
はい。なので、当時、専門学校もほとんど行かなくなっていたので、だったら、ここで働けたらいいなあと思い、駄目元でおもいきって電話してみたら、まさかの展開、働けることになったんです。毎日、生でブルースを聴けるなんて夢のようでしたから、「このポジションは譲るまい」と必死でしたね(笑)。それが25年ほど前の話になります。
出演者はプロミュージシャン、それにステージがない(笑)
JIROKICHIの歴史を長らく見てきた金井さんから見て、ライブハウスのシーンはどう変化してきたのでしょうか?
当時はJIROKICHIしか知らなくて、自分がバンドをはじめて他のライブハウスに出演するようになって、ココが特殊な場所だと知ったくらいで(笑)。多くのライブハウスには出演ノルマがあり、アマチュアやコピーバンドも出演していますが、JIROKICHIは出演アーティストが独特で、基本的にプロミュージシャン。それにステージがない (笑)。
そこがミュージシャン憧れのハコである所以ですね。高円寺の街はどう変化してきましたか?
その昔、高円寺はフォークの街でした。その後パンクシーンが盛り上がってからは「高円寺=パンク」というイメージが強くなったと思います。最近は、駅前もきれいになって、また街の様相も変わってきましたね。
高円寺は酔っ払いの街のイメージでしたが、最近はずいぶんキレイになりましたよね。
昔は放置自転車がひどかった! 僕なんかは、自転車3、4台、バイク3台盗まれましたからね(苦笑)。全国でも1番ぐらいに自転車泥棒が多い街だって評判もありましたね。ホント随分変わりましたよ(笑)。
街もきれいになって、ミュージシャンやお客さんの層に変化などありますか?
変化はありますね。バンドやミュージシャンが「一旗揚げてやろう!」という野望を持つような感じではくなりましたね…、そこそこでいいや、みたいな感覚の方が普通になっていますね。それと、若い人たちがお酒を飲まなくなりました。ライブの楽しみ方も以前とは変わってきていると感じています。
不況が続いている煽りかもしれないですね…。
そうですね。今の若い世代は不況の時代しか知らないから。僕がこの業界に入った頃はバブルの名残みたいな物があって、ギラギラしてる人が多かったですね。良い意味でめちゃくちゃな人がいっぱいいましたが、それはそれで店側も疲労困憊ってことも多かった(笑)。高田渡さんなんかは演奏中に寝ちゃったりすることもあって。今では考えられないですよね(笑)。
先人が濃すぎたのかもしれませんね(笑)。それでは最後にメッセージをお願いします。
ステージもない小空間で、一流ミュージシャンの生演奏を間近に聴ける場所で、臨場感とミュージシャンの実力を思う存分に楽しんでもらいたいです。また、こだわりの料理とともに、座ってゆっくり楽しむことも出来ます。ライブハウスのリラックスした楽しみ方、というのも知って頂ければ幸いです。
興奮と安らぎを同時に味わえる素晴らしい空間だと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。
高円寺の「Live Music JIROKICJI」ライブ情報の詳しくはJIROKICHI公式サイトへ、公式Twitter @jirokichimusic、facebookページもフォロー!
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