LiveWalkerが取材したライブハウス・インタビュー特集(全111回・2013年7月〜2020年2月)のアーカイブです。掲載情報は取材当時のものです。

ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.85

幡ヶ谷 FORESTLIMIT

幡ヶ谷FORESTLIMIT について
幡ヶ谷駅北口に2010年3月、ノイズ、エクストリームミュージックを愛するナパーム片岡氏がオープンしたオルタナティブスペース&実験的スタジオ&BAR。ヴィンテージALTEC A7/JBL+UREI1620などハイエンド・アナログを軸にとするサウンドシステムを備え、辺境音楽からノイズ、インプロ、踊れる昭和歌謡まで、先鋭的なLIVEやDJイベントを中心に、レコーディング、映像、配信など、さまざまな形態による創造的探求とアート企画が繰り広げられている。幡ヶ谷から世界へ。
幡ヶ谷FORESTLIMIT へのお問い合わせ
幡ヶ谷FORESTLIMIT 公式サイト
渋谷区幡ヶ谷2-8-15幡ヶ谷KODAビルB1F 102
TEL: 03-6276-2886
イベント企画・ホールレンタル受付中

ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 幡ヶ谷FORESTLIMIT 編

このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。

フォレストリミット代表 片岡源太郎氏

オルタナティブスペースとアトリエが合体したような空間

本日は幡ヶ谷FORESTLIMITオーナーのナパーム片岡さんにお話をお伺いします。オープンはいつになりますか?

オープンは2010年3月です。本格的に稼働するのはもう少し後日になりますが。

お店をオープンする経緯について教えて下さい。

当時、美術大学出身の仲間たちとのコミュニティーで雑誌創刊しようという企画を立ち上げたのですが、それが諸事情で立ち消えになってしまって。そのために準備していた運転資金があったので、それじゃぁ…、というノリで開業しました。

どのようなコンセプトのお店を考えていたのですか?

オルタナティブスペースとアトリエが合体したような空間をイメージしていました。当時から、こういう場所を「オルタナティブスペース」と言っていて、同じようなスペースを作っていた連中が結構いましたね。

オルタナティブというと、なんでも取り入れるという姿勢でアートを発信するという感じ?

そうです。今では、音楽も含め、さらに多様性に富んだ企画を展開しています。

音楽イベントのジャンルとしてはどのあたりでしょう?

音楽もさまざま、オールジャンル…、厳密にはジャンルという言葉で定義するのもむずかしいのですが…。

コンクリート打ち放しで、かなり音の鳴りが期待できますが、(近隣への)音の問題はありませんか?

最低限の防音はしていますし、防音壁も立てて、爆音は出さないのでなんとかなっています。そのあたり、近隣とのお付き合いは綿密にやっています。

FORESTLIMIT(フォレストリミット)という店名のルーツを教えてください。

幡ヶ谷って、新宿から2駅の都心部にあるのですが、これといった地の利もなく、なんとなくわかりづらい場所じゃないですか? なので、コンセプト的に「(街の)はずれ」、「端っこ」という意味も込めてFORESTLIMITという名前にしました。

確かに、都心部にしては、ややマニアックな土地です(笑)。幡ヶ谷を選んだ理由というのは?

幡ヶ谷に知人が住んでいて、たまたまこの物件を見つけたので借りてみました(笑)。もともと私自身、中央線カルチャーにどっぷりつかっている人間だったので、そっちのエリアで探していたんですけどね。

その「(街の)はずれ」では、いまや先鋭的なイベントが日夜行われていますね。

おかげさまでイベントはほぼ毎日やっています。定休日というものがないので、お話をいただければ毎日でもやります。

うちでやっているアーティストを世界に発信していきたい

「オルタナティブスペース」というのは、お店としてはどのようなカテゴリーに属するのでしょうか?

基本的にはイベントスペースになると思いますが、ここにはアトリエやスタジオ的な機能も備わっているので、イベントの合間に、ドラムの録音や、レコーディング技術の研究や実験など、なにかしらやっています。

いろいろなアートの実験場という感じですね。オープンからお店の形態に変化はありましたか?

はい、最初は右往左往しながら無理矢理やってきたので…。ライブハウスとしても利用できるようになるまで少し時間がかかりましたが、今は出来ることがどんどん増えてきました。現状、この先私たちの活動がもっと広がっていく可能性を感じています。

可能性を宿したFORESTLIMITの新たな展望について、ぜひ聞かせてください。

うちは、アンダーグラウンドなもの、マージナルなもの、エクストリームなものを多く扱っているので、日本のみならず世界規模でのつながりをどんどん作って、うちでやってくれているアーティストを世界に発信していきたい。今は技術的に進歩しているので、真面目にやっていれば、素晴らしいお話もやってきます。

とくにインディペンデントなアーティストを中心に、従来の空間や手法にとどまらない、新しい表現の「場」が生まれていますね。

FORESTLIMITでは、「アトリエ的」な部分と「箱の営業」の間にある企画や制作を増やしていきたいと考えています。芸術表現のスペースと活動の1つとして、一昨年から、いろいろな小箱でFORESTLIMIT名義の企画をやらせてもらっています。今年は岡崎(愛知)や大阪でもやりますし、野外イベントもやっていきます。

たいへん楽しみな企画になりそうですが、具体的にはどのようなイベントになるのですか?

ちゃんと説明したいところなのですが…。言葉やイメージだけで捉えてしまうと、ひょっとしたら軽い感じに受けてられてしまうかもしれませんので、私から、ここで具体的なことを言うことはちょっと難しい…。

FORESTLIMIT発のイベント、アーティストに注目ですね。

壮大なコンセプトで、むちゃくちゃポジティブに考えていますので、ぜひ!

ところで、「ナパーム片岡」というお名前にはどういう意味が?

それはもう、NAPALM DEATH(イギリス出身のハードコア、グラインドコアの元祖的バンド)からです。昔からエクストリームミュージックが好きだったので、その影響です。仲間内では、お互いあだ名で呼び合っていたので、本名を知らなくても問題なかったのですが、店をオープンして商売となると、そういう訳にはかない。なにか名前と分かるものをつけなきゃならん、じゃあ、ということで好きなバンドの名前と本名を合わせるという経緯です(笑)。

なるほど「ナパーム片岡」、一瞬で覚えられました。営業的にも大成功かと(笑)。

ありがとうございます。

ノイズミュージックにどっぷりハマった高校時代

それでは少しさかのぼって、片岡さんと音楽の出会いについてお願いします。

出会いは中学時代ですかね。かなり変わり者でして(笑)、過激な音楽が救いになっていました。

過激な音楽というと、どのあたりですか?

まずはパンテラですね。そこからさらに過激なものを突き詰めていったら、いつの間にかノイズミュージックにどっぷりハマっていて。高校の時はずっとノイズミュージック。自分でも活動していました。

ノイズ系のバンドもされたのですか?

高校時代は1人でした。地元が静岡県の富士宮ですが、1999年、18歳で上京して美術大学にいってから、ようやく音楽仲間ができたので、その人たちと色々やっていました。

大学在学中に音楽活動の幅が広がったわけですね。この業界にはどういった流れで?

大学は早々に辞めまして、西新宿のノイズ専門のレコード屋に入りました。そこはプロモーターや雑誌を手がけていたので、4〜5年は、がっつりスタッフをやりましたが、やがて、そこで食っていくことが厳しくなりました。

音楽メディアの激しい変化もあって、生き残るのは大変な時代でしたからね。

そうですね。そのあと、美大で情報芸術の知識や音楽、ITを勉強していたこともあって、音楽のプレイガイドに就職しました。3年ぐらい営業をやっていたのですが、忙しすぎて体を壊してしまいまして…。

体力的にも精神的にもハードな仕事だと思います。

まだITバブル期で、音楽が売れていましたからね。やりすぎてしまったのでしょう。

これまでの経歴から、とても積極的に音楽の仕事に関わってこられたように感じました。

こうやって話すとアクティブに見えますけど、実際は極めて退廃的でしたよ(笑)。退廃的じゃないとノイズとかは聴かないんじゃないかな?高校生の時は、人間の死体を集めてデザインされたジャケットのCDとか集めていましたからね(笑)。

アートとは何かを考えさせられます。それでは最後になりますがFORESTLIMITからメッセージをお願いします。

ヴァイブス! 観念的にアートだとかなんだとかありますが、根底にあるヴァイブスを忘れがちなので、ヴァイブスを感じて欲しいです。

今、この現場にいる皆さんも「ヴァイブス」に反応しましたね(笑)。ナパーム片岡さんの発信する世界観を楽しみにしています。本日はありがとうございました。

インタビュー&ライター 浅井陽(取材日 2018年5月)

インタビュー特集一覧(バックナンバー)

バンドメンバー募集のメンボネット ミュージックジョブネット
サウンドペディア
幡ヶ谷(渋谷区)
幡ヶ谷ライブハウス
1978年に開業した「京王新線」の駅。京王線の新宿〜笹塚間を地下化した複々線区間で、甲州街道の真下にホームがある。幡ヶ谷の地名は、平安時代の後期、源義家が源氏の白旗を「旗洗池」(本町1丁目付近)で洗い、傍らの松にかけて乾かしたという伝説が由来とされる。