ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.103
碑文谷 APIA40
- APIA40 について
- 『弾き語りの殿堂』の異名をとるアコースティック・ライブハウス。1970年、まだライブハウスという呼び名もない時代に渋谷で創業。芝居や映画など自由な表現の実験場としてスタート、70年代中ごろより音楽ライブをメインとしたスペースとなる。2009年、40周年を機に目黒碑文谷に移転し「APIA40」として新たな航海に発つ。完全防音の地下の隠れ家にはアピアの歴史を物語る独自開発のアンプ&スピーカーを設置。内面から生まれることば、アコースティック弾き語りの魅力を最大限にひきだす表現空間を追求。
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- APIA40公式サイト
目黒区碑文谷5-6-9 サンワホームズ碑文谷ビルB1
TEL:03-3715-4010
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ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 碑文谷APIA40 編
このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。
本日は、学芸大学APIA40 の店長、そして遠藤ミチロウ(1950年〜2019年)のマネージャーでもあった伊東玲育さんにお話をお伺いします。歴史あるアピアですが、オープンはいつになりますか?
1970年に渋谷で「SPACE LOBORATORY HAIR(スペースラボヘアー)」という店名でオープンしました。70年代中ごろから渋谷APIA(アピア)として営業し、2009年、現在の学芸大学駅(目黒碑文谷)に移転し、店名を「APIA40」に改称リニューアルしました。
ライブハウスとして老舗の中の老舗です。オープンの経緯についておしえてください。
アピアのマスターとママさんが「東京キッドブラザース」(東由多加が主宰していたミュージカル劇団)に出入りしていたんですね。その常打ち小屋だった「ヘアー」という小劇場を譲り受ける形で、はじまりました。
当時1970年ごろとなると、まだ「ライブハウス」が一般的ではなかった時代ですね。
その通りで、芝居や映画上映がメインでした。しばらく経った1974、75年ころから詩の朗読や弾き語りがはじまりましたが、当時の弾き語りは、まだ少数派で実験的な内容が多かったそうです。
音楽に関連するイベントが増えたのはいつごろからですか?
ライブの記録によれば、音楽ライブが目立って増えてきたのは1976年〜78年ごろです。そのころから南正人さん、友川カズキさん、遠藤ミチロウさん、友部正人さん、三上寛さんなどベテランの方が出演されています。
APIA40は、先日他界された遠藤ミチロウさんとも切っても切れない関係ですよね。
はい、1977年、遠藤ミチロウさんがギター片手に上京し、APIAで歌いはじめたころからのおつきあいです。「自閉体」「バラシ」といったバンドを経て、ザ・スターリン (THE STALIN)を結成してからは、皆さんの知るところだと思いますが、弾き語りでの活動に戻ったときに、アピアを事務所として活動の起点にしていました。
ミチロウさんの発信源であり、多くの先駆的シンガーソングライターが出演してきたAPIAは、世代を超えた憧れです。
おかげさまで、全国から弾き語りアーティストが立ち寄ってくれる場所になりました。それも、アピアに出演してくださる皆さんが、それぞれの場所で努力を重ねてきた歴史があるからに他なりません。
音響も照明も、歌、演者を際立たせるためのもの
現在の店名である「APIA(アピア)40」にこめられている意味をおしえてください。
APIAは「a Utopia(ア・ユートピア)」。「ひとつのユートピア」に由来する造語です。「40」は渋谷から碑文谷に移転するときが、40周年を迎える節目だったので、これからの40年も頑張ろうじゃないか、ということで「APIA40」と名付けました。
メインスピーカーなど、APIAの歴史を物語るような機材もありますね。
はい、年代物ではありますが「APIAアコースティック仕様」と呼べるものです。店舗の構造や演目の方向性を研究して、90年代から一緒に作り込んでくれている方がいて、スピーカーやアンプ類には手作りのものもあります。
照明やサウンド面での特徴、こだわりポイントをおしえてください。
長年、アコースティック弾き語りメインのライブハウスとして、音響も照明も、歌、演者を際立たせるためのものであるという考えでやってきました。演出については、あくまで「生身の体」で表現されたものを、しっかりと引き出すことに徹しています。
つづいて、伊東さんのこれまでの軌跡についてお聞きします。お店にかかわるようになったのはいつごろですか?
大学を卒業したころですね。在学中から、少しはお店に出入りしていましたけど、経営サイドとして携わったのは大学卒業後です。
APIA40のオーナーは渋谷アピア・マスターでお父様の伊東哲男さんですね。玲育さんも音楽活動をされてきたのですか?
いいえ、音楽とは程遠い生活をおくってきました(苦笑)。APIAは家族経営なので、それこそ、物心ついたころから音楽そのものは周りにあったと思うのですが…。楽器には触れたことがなかったし、たぶん音楽にも、ほとんど接してきませんでした。
演者の率直な想いを伝えていける場として
日本で指折りの歴史をもつライブハウスを営みながら、まったく音楽に関わることなく育ってきたと!?
はい、バックパッカーで旅をしていました(笑)。現在も楽器にはまったく触れてないです(苦笑)。ただ、ことばへのあこがれはいつも持っていて、それらを映し出すように旅をしながら写真を撮り続けていました。
これだけ類まれな音楽環境が身近にあると、人生を歩むうえで大きな影響を受けたアーティストもいるのではないでしょうか?
それはもう、断トツで、自分がマネージメントさせてもらっていた遠藤ミチロウさんです。ミチロウさんからは「自分の立ち位置」、それを知ることがどれだけ大切かを、彼の生き様から学ばせてもらいました。ミチロウさんと接しているだけで、伝わってきましたね。それに、アピア初期から活動してくださっている友川カズキさんからも、いつも刺激をいただいています。
ミチロウさんをはじめ、アピアで生命を鳴らしてきたミュージシャンの歩みが受け継がれているのですね。それでは、最後にAPIA40からメッセージをおねがいします。
窮屈な社会になってきているなかで、これからの時代はもっと、弾き語りのような制約の少ない、よりダイレクトで、より自由でメッセージ性のあるものが求められていくと思います。演者のみなさんが、自分の率直な想いを伝えていける場として、世の中に溢れているありきたりな言葉だけじゃなく、自分の内面から生まれてくることばを引き出せるようにサポートしていきます。
ライブハウス創成期から、生の音のエネルギーと力強いメッセージを発信してきていたAPIA40のライブ、多くの方に感じてもらいたいですね。
はい、アコースティックソロから、グランドピアノを織り交ぜたバンド形態まで幅広く、機材やアンプを通しても、生で聴いている感覚を味わえるはずですので、ぜひご来店ください。
来年50周年を迎えるAPIA40の航海、これからも見つづけていきたいと思います。本日はありがとうございました。
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